想像できるだろうか,明日突然,世の中にいる師匠・師範・親方と呼ばれる人々がいなくなることを。一体,何が起こるのか,起こらないのか。 例えば,世の中の優れた寿司職人がいなくなったら,寿司文化はどこへ行くのか。当面の間かもしくは永遠に,旨い寿司を食べることができなくなるのか? 修行中の寿司職人は途方にくれて寿司の道を諦めるのか,それとも自らが新しい寿司の道を切り開くのか。寿司職人だけではない。 華道,茶道,大工や工芸,多くの分野で師匠・師範・親方など,技術や伝統の継承を通じて,社会はゆっくりと確実に成熟してきた。しかし,師匠・弟子の関係は,情報流通経路が限定されていた時代には何かを身につけるための最も効率的な手法だっただろうが, ICT技術が発達し,個人での情報発信・収集や様々な分析が可能となった現代,師匠・弟子のような濃密な関係性を非合理的だと考える人々が出てきても 不思議ではない。その代表格が,ライブドア元社長の堀江貴文氏だ。堀江氏は実際に「寿司職人が10年も師匠について修行をするのはナンセンスだ」 といった意味の発言をしている。堀江氏の発言は賛否両論であることが多いが,この発言の後,寿司職人の世界が劇的に変化したという話は寡聞にして聞かない。 堀江氏はこのあと,新進気鋭の寿司職人との対談本を出しており,自分の発言を上手にビジネスに繋げるあたりは,氏のビジネスマンとしての才能に恐れ入るばかりだ。しかし堀江氏のこの発言,考えれば考えるほど,正解のないものに思えてくる。 そもそも,正解を必要としていない問なのかもしれない。
さて,最初の問に戻るが,技術を持ち,伝統を継承してきた先人たちが突然いなくなったら何が起こるのか?おそらく「生きる」というレベルでは 大きな変化は起きないのだろうと思う。堀江氏の言うとおり,昔ながらの手法だけが全てではなく,今の時代,いくらでもやり方はある。 一方で,社会は大きく変質してしまうのではないかとも思う。そもそも現代の寿司の価値・評価を守ってきたのは,脈々と続く師匠と弟子の関係による継承だ。 そうやって何代にも渡って受け継ぎ洗練させてきた伝統と異なった道を進むのであれば,新しい手法は新しい価値創造を掲げるのは必然であり, それが社会に受け入れられるためには欠かせない要件だと思える。 伝統的手法と継続された価値,新しい手法に新しい価値,これは型にハマるかハマらないか,それこそ個人がどういった生き方を望むかに他ならない。 伝統と革新の戦いは歴史の必然とは言え,インターネットが登場し,情報流通が革命的に拡大したことにより,戦線は拡大する一方だ。 いずれにしろ,型にハマるかハマらないかを選ぶ自由が私達にあることこそが,私達の社会が成熟したきた証ではないかと思う。
結局のところ, 旨い寿司が味わえて,美しいものに感動できればいいのだ。
数年前,アンコールワットの街,シェムリアップを訪れた。遺跡は素晴らしく,街も活気に溢れ,ここが数十年前に政治指導者による 虐殺があった場所とは思えなかったが,ちょっと意外なものが忘れらない。それはチェ・ゲバラの肖像画,あの有名な「英雄的ゲリラ」だ。 これは私がふらっと立ち寄ったカフェの壁一面に描かれていたものなのだが,若者たちが「英雄的ゲリラ」の前で明るくピースサインをしながら 自撮りしていた。おそらく若者達の人気スポットなのだろうが,すでに若くなかった私にとっては不思議な光景であった。 カンボジア,共産主義ゲリラ,若者。何ともいえない組み合わせ。しかし,過去に縛り付けられた大人たちの躊躇いを振りきって前進する 若者たちのパワーとはなんと凄いものなのか。この国は先人たちの力を失ったが,未来は明るいと確信できる。
型にハマるか,ハマらないか,結局それは生き方の問題。老若男女は関係ない。明日からの私達も問われてる